随意随想

「ひとつの区切りと、新たな道」

大阪ソーシャルワーカー協会会長  大塚 保信

今春3月、70歳で前職を定年で退職した。振り返れば長い教員生活であった。厳しく慈愛に満ちた恩師のもとで薫陶を受けながら、高齢者問題を中心に社会福祉を研究させて頂く機会に恵まれた私はまこと果報者であった。

しかし、初めて教壇に立ったのは、まだ大学院に学生として在籍しながら非常勤講師として勤めた高等学校であった。教員に欠員ができ授業継続に困難をきたしているとの突然の依頼が舞い込み、事前の準備も殆ど無いままに、大学院の学生仲間5人で助っ人として急遽赴任した。

50年ほど昔の話だから告白してもいいが、この学校が、人気タレントの仲間由紀恵が問題生徒をあつかう教師役を演じて一時話題になったテレビ番組そっくりな並外れた問題校であった。教員に対する反発はもとより、校内や他校の生徒とのもめごとや争いごとは日常茶飯事であり、当時の荒れた学校事情を語れば幾ら紙幅があっても足りない。

信じられないかもしれないがこんなこともあった。九州一周の修学旅行を終えて暫く経ってから「記念写真を買いたい」と料金を持って生徒がやってきた。「君は修学旅行の積立預金もしなかったし、旅行にも行かなかったのに写真を買ってどうするのか」と担任の教員が不審に思って尋ねたが、驚いたことに記念写真に当の生徒の顔が写っている。実はこっそり紛れ込んで修学旅行に同行していたのである。その後、旅行料金を全額払わせられた生徒も間抜けならば、引率していた教員も何とも無責任で不届き極まりない。今の時代にこんな事実があればマスコミの格好の餌食になっていたことであろう。

この学校のどこに問題があるのか、新参者の私にも直ぐその原因が分かった。教員の殆どが生徒に目を合わせることなく、騒ぐ生徒がいても一向にお構いなしに教科書を棒読みにし、授業が終わればさっさと学校を後にする。これでは生徒の不満も募るばかりであったし、どこか寂しげであることに気付いた。

残念ながら非常勤講師の身分であるから職員会議で意見を言う機会もないので、とにかく時間の許す限り生徒と交わることにつとめた。食事もそこそこに昼休みはグラウンドで野球に興じ、放課後も遅くまでたわいもない話に泣き笑いした。とかく青少年の言動には不条理なことが多いが、彼らの目線に立って見渡し考えてみれば容易に理解できることも多い。しかし決して彼らにおもねることもしなかった。

授業内容も手を抜いたつもりはなく興味を引くように工夫したつもりであったが、教科書を離れた体験話のほうが生徒の関心を引き付けたようである。家業が傾き大学も夜間に通った苦学生であったことを打ち明けると、「僕も苦学生です」という生徒がいた。身なりも良く授業料も滞納していないので不審に思っていると、「授業内容が良く理解できなく、勉強するのが苦しい」から苦学生だという。

その後大学に籍を移すことになったが、若き日の新米教師の貴重な体験が、研究と同等以上に教育を重視する私なりの教員像の基礎をつくり「永遠の子どもで、最高の大人に」という私の信条を生みだしたことは間違いない。

夜学に通って貧乏学生であったから夜も家庭教師をし、大学にもあまりいけなかった。しかし、人生まさに塞翁が馬の喩えのとおり苦しいこともあれば良いこともある。その時教えていた小学生が今では我が人生の最良の伴侶である。時々学生からは犯罪だと言われるが、立派な職場結婚だと胸を張っている。いま思えば家庭教師が教員生活と新たな人生の登竜門であった。

ともあれ教員生活に一応の区切りをつけて、現在はこれまで30年余り関わってきた日本ソーシャルワーカー協会の一員として、さまざまな生活困難に立ち向かっている人々を社会福祉の専門的な立場から支援する活動に新境地を拓こうと決意している。

私の人生後半の区切りと新たに進むべき方向は定まったが、いまだ東日本大震災には小さな区切りもみつけられず、行く先を照らす光明も見えてこない。被災者の目線に立って見渡し考えてみれば、直ぐに着手すべきことが山ほどあるのに無用な議論や非難が先行して空回りばかりしている。これほど人間とは愚かだったのか。

いやいや、天地は時としてはかり知れない試練を人間に与えるが、苦難に耐え忍び切り拓く人智も与えたはずである。被災者に安堵の日常が戻るまで、今はおのが立場で総力を挙げて人智を尽くす時である。ひょっとして、この期に及んで組織やおのれの立場を優先して愚考を繰り返す大人の裁量より、次代を担う純な青少年に宿った人智が、知恵の輪を解くかのようにこの国難に光明を見出してくれるかもしれない。

随意随想 バックナンバー