随意随想

「羽根のない扇風機」

大阪ソーシャルワーカー協会会長 大塚 保信

時の移ろいを真っ先に伝えてくれるのは、道端にひっそりと咲く名もない草花や、その草花に隠れて多彩な鳴声を奏でる小虫である。日常の生活や仕事に取り紛れている我々に、ああ今年も秋が巡ってきたのかと季節の草花や小虫のオーケストラが気づかせてくれる。

しかし、9月になりましたよと親切に秋の訪れを告げられても、少し足早に歩いただけで汗が背筋を伝わるこの時期の昼時はまだ夏の名残をいやほど実感させられる。昨夏ほどではなかったが、今年もまた蒸し暑い日本の夏と精一杯闘ってきた。

しかし、夏の暑さとの闘いは今に始まったことではない。鎌倉時代の吉田兼好は有名な随筆「徒然草」で「家の作りようは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居(すまい)は、堪えがたき事なり。」と述べている。冬は重ね着をするなり上手に暖をとるなりして何とか過ごせるが、風通しや工夫を凝らしていない家で夏を過ごすことは耐え難いと言っている。

それでも昔の人はさまざまな工夫をして夏の暑さを凌いできた。六月の衣替えに合わせ、大掃除をした際に畳の上に肌にひんやり感を与える竹とか籐の敷物をひろげ、建具も風通しの良いスノコ状の襖や簾にわざわざ取替えた。床に入るときには戸や障子は開けっ放しにして、蚊帳の裾を二、三度振って蚊の侵入を阻止してから寝間に潜り込んだ思い出は、我々世代は誰でも経験したことである。夕闇が迫る頃、小さな庭や路地に打ち水をして、風鈴がチリリンと鳴ればそれだけで涼を感じ、そこへ井戸で冷やしたスイカが縁台に運ばれてくればこれに優る一日の締めくくりはなかった。

しかし、どこにでも見られた日本の夏の風物詩は、地球温暖化にくわえ道や多くの建物がコンクリートで固められた現代の生活環境で一変してしまった。アスファルトに撒く打ち水はすぐに蒸発し、風鈴はチリンチリンと鳴かず熱風にあおられジリジリと泣いているようである。

とにかく暑さを凌ぐにはクーラーが一番の頼りである。しかしながら、今年は東北大震災の影響で、できるだけ節電するようにとの呼びかけがあり、クーラー使用を控える家庭が多かった。その影響で扇風機が飛ぶように売れたようである。

我が家には40年前に購入したレトロで今やお宝的な存在である扇風機があるが、30年以上前の扇風機は突然火を噴き火災を起こす恐れがあるとのテレビ報道があったので、この際新しいものと取り替えようと6月早々に近所の大型電気店に出かけた。しかしながら、時すでに遅しで全品売り切れにて残念ながら一台も手にすることができなかった。

ところが同じ売り場の隅っこに何やら妙な物がならんでいる。よく見ると扇風機のようにも見えるが、真ん中にあるべき扇の羽根がなく空洞のままである。幼児が誤って手を突っ込んでも安全だという宣伝で、羽根のない扇風機が売り出されていたことは知っていたし、四角い形をしたスイカや青色のバラが出回る世の中だから別に驚きもせず、また日頃から変わり者扱いされている身であるから、少し購買意欲も湧いてきた。

風がどこから出るのかと興味を持ってスイッチを入れてみると、丸い外枠からファーンとした風が拡散して吹き出してきた。しかし、残念ながら期待するような快適な風がストレートには届かず隔靴掻痒の感がのこる。斬新なアイデアには敬意を評するが、使用方法も十分理解しないままで言っては商売の邪魔をするようで恐縮だが、生ぬるく中途半端な送風に苛々してくる。

風量もさることながら、何よりあるべき所に肝心な羽根がなく必要な働きをしていないのが物足りなく不安な気持ちが先に立つ。まるで、指導者が不在というか必要な働きをしたくても周りから押さえ込まれ、その結果停滞したままで混迷を繰り返し世界の動静から遅れを取りそうになっている今の日本の姿を暗示しているようでもある。

大震災の対策でも、周りから拡散した意見があれこれでるが、被災者が本当にほしい風(支援)がなかなか直接に届かない。なにも政治や政治家だけの話ではない。高齢者問題の発言や提案についても座して待つことが多く、中心になるべき高齢者から直接に声が発せられることがあまりない。

いよいよ団塊の世代が老人クラブに仲間入りをする時代が到来した。いま老人クラブは全国的に若手委員会が構成され、これからの老人クラブ活動に新基軸を築こうとしている。これまで中心になって日本を支えてきた団塊の世代の活力に寄せる期待は大きい。

だからこの世代の会員には、老人クラブに加入して間がなく、まだ「若手」だから提案や実践は「苦手」だとは言ってほしくない。

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