随意随想

「現代の“歩く”意味」

同志社大学教授運動処方論  石井 好二郎

「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」なるものをご存知でしょうか? 21世紀を間近に控えた2000年(平成12年)3月31日に厚生省事務次官通知等により策定された第三次国民健康づくり運動のことです。

簡単に述べれば、「21世紀の日本国民はもっと健康でいよう」と、疾病の発生を防ぐ一次予防に重点対策を置き、食生活・栄養、身体活動・運動、休養・心の健康づくり、タバコ、アルコール、歯の健康、糖尿病、循環器病、がんの9分野、59項目について、2010年(平成22年)を目処とする具体的な数値目標を設定したのです。昨年の10月に最終評価が行われましたが、目標値に達成できたのは10項目であり、約6割の項目に目標値に達しなかったものの改善が認められたのでした。しかしながら、私の専門とする食生活・栄養、身体活動・運動の分野では改善項目が少なかったのです。

最終評価では、運動習慣者(1回30分以上の運動を、週2回以上実施し、1年以上持続している人)の割合は増加しているものの、増加した年齢層は高齢者であり、年齢を調整すると変化が認められなかったと報告しています。それどころか、歩数にいたっては、成人男性は8202歩から7243歩に、成人女性は7282歩から6431歩に減少していたのです(70歳以上では、男性は5436歩から4707歩、女性は4604歩から3797歩)。

これらの背景として、私たちの生活の中から、運動とは言えない日常的な身体活動(NEAT ニート:Non―Exercise Activity Thermogenesis)が減ってきていることがあげられます。階段を使わずにエスカレータ・エレベータに群がる人々だけの話しではありません。今、電話が鳴って電話機のところまで移動することがあるでしょうか?リモコン争いはあっても、テレビまで移動してチャンネルを奪い合う姿はもう無いのです。我々は便利を求めた結果、動かなくなってしまったのです。

では、大阪市民の歩数はどうなっているのでしょうか?平成13年3月に「全ての市民がすこやかで心豊かに生活できる活力あるまち・健康都市大阪の実現」を基本理念に掲げ、健康増進計画「すこやか大阪21」を策定されました。当時、成人男性8419歩、成人女性6969歩(70歳以上では、男性5374歩、女性4091歩)であった一日の平均歩数を、平成24年にはそれぞれ、9400歩以上、8000歩以上(70歳以上では、男性6700歩以上、女性5400歩以上)となるよう目標値を掲げたのです。しかし、平成17年度に中間評価を行ったところ、男性では8194歩と225歩の減少、70歳以上では4860歩と成人の倍以上の514歩の減少を示しました。逆に女性は、成人7250歩(プラス281歩)、70歳以上5279歩(プラス1188歩)であり、高齢者女性の健闘が光ります。

昨年、高齢者の歩行速度が余命に関係するという論文が米国医師会雑誌に掲載されました。歩行速度が遅いか速いかで、その後の余命に大きな個人差があるという結果が得られたのです。また、すでに約30年前には転倒しにくい高齢者は歩行速度が速く、歩幅も広いことが報告されています。すなわち、力強く歩ける人ほど健康であるとも言えるでしょう。

日本最初の実測日本地図である大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)を作成した伊能忠敬(1745〜1818)は、元服まで成長した人の平均寿命が50〜55歳であった江戸時代後期に、50歳で隠居し、51歳より江戸に出て測量(天文学)を学びます。そして、日本地図を作成するために全国測量に旅立つのは56歳の時です。それから足かけ17年で歩いた距離は、地球一周に相当する約4万キロにもなります。忠敬は歩数を数え、その歩数に自分の歩幅を積算することで距離を測っていました。したがって、忠敬の歩幅は記録に残っています。彼の歩幅は約69センチです。歩幅の目安の1つとして、身長から1メートルを差し引くという方法があります。忠敬の身長は残っている着物の丈より約1メートル60センチ位であったと推測されています。つまり、忠敬は現代で言えば後期高齢者とも考えられる年齢になっても、大きな歩幅で力強く歩いていたのでしょう。その結果でしょうか、当時としては長命の74歳で没しています。

平成22年の厚生労働省研究班の試算では、20歳以上の1日の歩数が1歩増えるごとに医療費が0.0014円削減できるという結果が出ています。また、私の研究室での京都市内の高齢者を対象とした歩行による運動介入研究では、2年間の歩行の継続により、医療費が月平均で2割近く減ることが確認されました。動かなくなってしまった現代の私たちの暮らし、意識・意欲を持って歩くことの意味は、かつてないほどに高まっているのです。

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