随意随想

「限界集落」「限界団地」

桃山学院大学教授 石田 易司

「限界集落」という言葉がある。集落に若者が少なくなって、高齢化率が50%を超え、自治会活動や祭り、葬儀などの集落の役割の担い手がいなくなり、活動が停滞し、さらには買い物や医療など日常生活に必要なものが手に入らなくなっていく集落を言うらしい。

最初、この言葉が使われたのは高知県の山間部でのことらしいが、調査をしてみると、日本中の中山間地域や離島にこの現象が広まっていることがわかって、他人事ではなくなった。特に、当時宮崎県知事だった東国原英夫氏が「限界集落という言葉を使わないで。宮崎県中限界集落だらけで、宮崎県はとんでもないところだと思われてしまう」といった内容のメッセージを投げかけたことで有名になってしまった。

けれども、限界集落という言葉の響きに、故郷へのノスタルジーをたくさんの人が感じて、景色の美しい、食べ物のおいしい、観光地のようなイメージも持っていたのも事実である。しかし、実際はこの集落に未来はなく、待っているのは「消滅集落」という結末だとか。

私は三重県の英虞湾内に浮かぶ離島・間崎島が好きで、よく足を運んだが、この島も人情厚く、魚や貝がおいしく、夕日が輝く美しい島だが、英虞湾の真珠の生産が盛んだった1950年代、600人以上あった人口が、今や100人を切るほどになってしまった。小学校も保育所もとうの昔に閉鎖になり、この春にはたった1軒あった商店も店を閉じ、響きそのものの「孤島」になってしまった。中学生と高校生の兄妹が唯二人の若者で、船で本土の学校に通っているが、その上は50歳に近い二人の両親だとか。昼間、島を歩いてもお年寄りにしか出会わない。高齢化率は85%ほど。

デイサービスセンターも介護事業所も、もちろん病院もなく、病気をしたり、介護が必要になると、島では暮らせないので、本土にいる子どもたちのところか病院や施設に行かざるを得ないのだとか。島には見るからに元気な高齢者がいっぱいだが、元気でないと、この島では暮らせないのだ。

また滋賀県高島市の木地山という集落は、琵琶湖の水源の一つの川の突き当りで、文字通り木地師の集落であったのだか、木の容器の需要が減り、また、山を越えると若狭の海につながる道があって、京の都へ海産物を運ぶ重要な通路であったのが、鉄道と自動車道路の整備で、歩く道は不要になり、人が住まなくなって、消滅の道をたどった。

こんなふうに、産業構造の変化によってできる限界集落は田舎に限ると思っていたのだが、数年前、ある新聞が「都会にも限界集落がある」という記事を載せた。

東京オリンピックや大阪万博などの高度成長期にできた2DKの団地群のことなのだ。その頃新婚で入居した人が、核家族で暮らし、子どもは成長し、結婚や就職で家を出ていき、高齢者だけがその団地に取り残されてしまっている状態だ。大阪市内にも数カ所あるとか。その多くがエレベーターがなく、電車の駅から遠く、周辺にスーパーマーケットもないところ。新聞はこれを「限界団地」と呼んだ。

2DKというのは、高度成長期の日本の社会の発展のシンボルのようなものだったのだが、そして、その時は若い世帯に必要だったのだろうが、しょせん行政の安上がり政策でしかなく、40年後、50年後のことなど何も考えられていなかったのだと、今になって思う

大阪府下のそんな団地群の高齢者の調査にかかわることがあった。鉄筋で囲まれた中身の見えない団地は、想像以上に消滅化に向かって進んでいた。

万博のころに新婚で入居した人たちが、40年余り、そのまま暮らしているその団地では、まず、独居、夫婦二人など高齢者だけの世帯が周囲と比べてあまりにも多いという特徴がある。ほとんどが75歳までの前期高齢者なのだが、高齢化率だけでなく、独居率も余りに高い。40年たってもまだ地域にとってはよそ者で、祭りや老人クラブの食事会などへの参加率も低く、家族の訪問も少ない。自分が健康だと思っている人の数も少ない。その結果、毎日の生活への満足度も低く、不満と不安の中で仕方なく暮らしている人が多いという結果になった。

地域ごとに構成されている老人クラブが、よその地域の事情に口をはさんだり、かまいに行くのはルール違反かもしれないが、まさに他人ごとではない。ちょっと視野を広げて、元気のないお年寄りに声をかけて、老人クラブの仲間に入ってもらうことはできないだろうか。

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