随意随想

大阪の誇り 〜社会福祉に心血をそそいだ先駆者たち〜

大阪ソーシャルワーカー協会会長 大塚 保信

 振り返ってみれば、いつの間にか随意随想の執筆を担当させて頂いてからかなりの歳月が経った。その間、長らく教員として高齢者福祉を主題とした社会福祉の研究や学生指導にあたってきたが、定年退職した現在は以前から参画している大阪ソーシャルワーカー協会に所属している。ところが、協会設立の源流をたどってみると60年余りが経過しているがどんな団体なのか殆どの読者はお分かりではないと思う。改めてごく簡単に説明すると、福祉教育に携わっている大学等の教員や各種の社会福祉施設や現場の専門職として、様々な生活困難をかかえている人々を支援するための研究や実践を行っている団体である。

 これまで大阪は長い歴史のなかで社会福祉分野の実践や研究について、常に全国から注目され評価されてきた。戦前戦後の時代には厚生省の担当者がしばしば大阪にやってきて、どんな社会事業をするのかを視察して参考にしていたと当時をよく知る関係者からたびたび聞かされた。例えば民生委員制度やホームヘルプサービスは、今では全国どこの町でも実施されている福祉制度や福祉サービスであるが、もとを辿れば大阪から始まったものでそれ以外にも実に多くの例がある。そこには、斬新な発想と果敢な実践を展開し、社会福祉に心血をそそいだ先人たちの奮闘の歴史があった。

 そこで2年間ほどかけて先達が築いた事業の跡を辿り、大阪ソーシャルワーカー協会に所属する会員で昨年「大阪の誇り・福祉の先駆者たち〜挑戦の軌跡〜」と題した書籍を出版した。一人でも多くの人の目に留まれば有難いとは思っているが、特に次の時代を担う若い世代に読んでほしいとの願いをこめ、当時の貴重な写真を多く取りあげできる限り平明に記述するよう努めた。大阪ならではの社会事業や人物を58項目登載したから詳細には紹介できないので、その内の幾つかを紹介してみたい。

 今から1400年以上も前の飛鳥時代に、蘇我陣営に属していた聖徳太子が物部守屋との戦いに苦戦した時、御仏に「力を与えたまえ、もしこの戦いに勝利したあかつきには、そのお礼として広大な寺院を建立します」と祈って勝利した。この誓いを果たすため593年に四天王寺を創建し、身寄りのない高齢者や孤児、病者などの世話をする「悲田院」が設けられたと伝えられ、それが我が国で始めての社会福祉の活動であると言われている。

 江戸時代の後半に4年間にわたり全国的に凶作や天災が続いた「天保の飢饉」が起こったが、大阪の奉行所役人は庶民の困窮をかえりみず幕府のある江戸へ大量の上方米を送りご機嫌伺いをしていた。しかしその一方で鴻池屋、天王寺屋といった多くの豪商が貧しい人々に施しをした証である「浪花持丸ほどこし鑑」という番付表に似た刷り物が残っている。まさにそこに大阪町人の心意気を感じとることができる。またその当時、陽明学者でもあった与力の大塩平八郎は困窮している貧民を助ける施策を上司に上申したが取り上げられず、たまりかね天保8年に身を賭して「大塩平八郎の乱」といわれる義挙を起こしたのはよく知られている。

 ことに明治時代以降大阪は、福祉の先進地域として全国をリードしてきた。幕末から明治にかけて小林佐兵衛という侠客がいた。侠客といえば賭博や喧嘩渡世に明け暮れる輩であるが、強きをくじき弱きを助ける者でもある。佐兵衛は多額の私財を投じて、今日の老人ホームや児童養護施設や少年院にあたる「小林授産所」を開設し、今も吹田市にある老人ホームの母体となっている。佐兵衛については作家の司馬遼太郎も小説「俄」で取り上げている。現存する老人ホームで2番目に古い大阪養老院を創設した岩田民次郎は、当時東北地方でおこった大飢饉で窮状にあった子どもを預かり「養老院」を「幼老院」と名乗り、また縦横に流れる水の都の水運を活用して大阪毎日新聞慈善団が「慈愛丸」という病院船を就航させ巡回医療を行っていたが、柔軟でユニークな発想を基とするまさに大阪ならではの福祉事業といえよう。

 戦後日本の社会福祉理論を構築した第一人者といえば、大阪市立大学教授で大阪ソーシャルワーカー協会の初代会長でもあった岡村重夫であり、その学恩に浴したものは日本全国に数多くいる。また大阪市民生局の児童課長でありながらホームヘルパー制度の創設にあたり、老人クラブの指導や交通機関の高齢者割引制度に先鞭をつけた池川清という戦後大阪の社会福祉をリードした型破りの公務員もいた。お二人はかつてこの随意随想も担当されており、私が師事した恩人でもある。

 近年の大阪は、人口規模でも30年ほど前に横浜市に抜かれ名古屋市にも追いつかれそうで、なんとなく精彩がない。東京、大阪間を67分で走るリニア新幹線も最初のうちは名古屋止まりだそうである。しかし1925(大正12)年の大阪市の人口は211万人で当時の東京市を上回り、世界でも6番目の人口を擁する大都会で「大大阪」といわれた時代があった。斬新な発想と果敢な実践を展開した先人に学び直し、再び活気ある大阪を取り戻し新たな歴史を築きたいと願っている。

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