随意随想

法学研究から社会福祉の道へ

大阪ソーシャルワーカー協会会長 大塚 保信

 毎朝玄関口に届けられる新聞記事に目を通すことから一日が始まる。国内外で起こった最新の情報が届けられ、専門とする分野の貴重な資料も時に応じて提供されるので有難い。時間をかけ丹念に読み込むので、かなりの疲労を覚える日もある。今日も一日平安であれとつぶやき一面を開ければ、願いもむなしく激動する世界情勢の厳しい現実が目に飛び込んでくる。国内のニュースに目を移せば悪質な犯罪記事が紙面を占拠しており、その事件の犯行動機や背景をあれこれ考えているとさらに疲れが増す。
 実は学生時代は法律を学び、その中でも刑法学を専攻していた。体系だった法律もない昔の日本では仇討ちのように個人的な制裁を認めることもあったようだが、言うまでもなく今では罪を犯した者には国家が公権力を用いて刑罰を科す。なぜ刑罰を科すのかという本質論については多くの議論があるが、犯した罪を償うのに相当する罰を受ける「応報刑」と、犯人を教育し社会に復帰させる「目的刑」あるいは「教育刑」に大別される。被害者や関係者の無念な思いを考えれば応報刑であるべきという心情はよく理解できる。
 しかしながら、刑期を終え出所しても直ぐには元の社会生活に馴染めず、また世間の冷たい目を背にして犯罪を繰り返すこともある。それゆえ学生時代から一貫して目的刑の考えを基本におき、特に少年犯罪については教育刑の立場を尊重してきた。ただ、常軌を逸し身震いするような凶悪事件が伝えられるたびに「罪を憎んで人を憎まず」という信条も緩むことがしばしばある。
 これまで人を裁く裁判と言えば、極めて難しい司法試験に合格した裁判官、検事、弁護士という専門職によって展開されてきたが、特定の犯罪事件については司法に対する国民の理解を深めるため一般市民が参加する裁判員裁判が平成21年から導入されることになった。人を罰するという行為には慎重な判断と倫理性が問われる。貧しいがゆえに、複雑な人間関係がゆえに、また厳しい生活環境がゆえに人の道を逸れて罪を犯す人もいる。
 刑法学を学んでいた苦学生の頃は弁護士を志望していたが、一方その頃から社会福祉への関心が深まってきた。30歳を目前に控え非常勤講師としてある大学で憲法や法学を講ずる機会を得たが、今思えば基本的人権の尊重とか公共の福祉に重きを置いた社会福祉を論じることが多かった。そんな時、その頃まだ心斎橋に事務所があった大阪ボランティア協会で当時事務局長をお務めになっておられ、後に大学にて研究を深められた岡本栄一先生に出会い、社会福祉への道にさらに奥深く進む契機を与えて頂いた。先生が主柱として支えてこられた協会は昨年創立50周年を迎えて、感慨深くお祝いの席に加えて頂いた。
 岡本先生は巧みなユーモアの持ち主で「福祉の道に入れば髪の毛が豊かになりますよ」とも教わった。頭髪には若い頃から不安を抱いていたので、その話に直ぐに飛びついた。福祉という英語を日本語風に発音すると「ウエル・ヘヤー」と読む、即ち「植える髪(ヘヤー)」という訳である。それから50年近く経つが私の髪の毛は後退する一方で、尊敬すべき先生ではあるが鏡を見るたびにそのお説に関してだけは不信感が日に日に増すばかりである。
 今では社会福祉の分野も多岐にわたっているが、当初は児童福祉の分野に最も関心があった。ところがその後親しくご指導くださった教授が、大阪をはじめ全国の高齢者福祉に先駆的かつ専門的な施策を提言し実践されてこられた先生であったので、その薫陶を受けて迷うことなく高齢者問題に取り組んだ。そのご縁で随意随想にも長きにわたり寄稿させて頂いている。
 現在の日本は格差社会とも言われている。格差社会と言われて気掛かりなことは、やはり高齢者問題である。若い世代でも所得格差はあるが、働いた年数も少ないので格差の幅も小さく機会に恵まれればまだ望みもある。しかし、年齢を重ねるごとに高齢者間の所得格差は広がり、巨万の富を蓄える人がいる一方で生活保護受給者の45%は高齢者で占められている。年間自殺者が10数年ぶりに3万人を割ったとは言え、その約40%が高齢者である。
 意外にも犯罪件数は減少傾向にあるが、高齢者の犯罪数は増加している。真面目に服役すれば刑期を待たず仮釈放されるが、身元引受人もなく行き場のない高齢者のほとんどは刑期いっぱい収監される。出所しても行き場もなく直ぐにまた食料品などを万引きして収監されることになる。複雑な事情を解決するのは容易ではない。しかし、そこから答えを見つけ出すのが支援者の仕事である。
 顧みれば、高齢者福祉にさほどの貢献も出来ていないとの自戒の念は常にあるが、社会福祉の先覚者から多くの学びを賜った身であり、老人クラブ会員の仲間からも知恵を授かる境遇にいるのであるから、「法学」の道から福祉の道に進んだことはあながち「方角」違いではなかったとしみじみ思う。

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