随意随想

貧乏競争

桃山学院大学名誉教授 石田 易司

 先日、子どもの頃母子寮で育ったという人と一緒に食事をする機会があった。日本中が貧困だった時代のことだが、それを乗り越えた自分のことを若者たちに語りたいというのだ。それでそんな話を黙って聞いてくれそうな、貧し気で大人し気な若者を集めたのだが、聞いてくれる若者には迷惑な話である。そこで、成功譚を自慢げに語るのではなく、貧乏なら僕も負けないから、子ども時代の貧乏話競争を楽しくしましょうと提案してみた。聴衆の若者は黙っておいしい食事をいただけばいいので、我慢してくれるだろうと思ったのだ。

 彼は努力の人で、今は働かなくてもいいくらいの大金持ちだから、若者数人の食事代を出すくらい、何でもないだろうとも思った。40代に売れる本を数冊書いて、その原稿料で暮らしているというのだ。英語で書いて、日本語に翻訳したものだから、世界中で売れているらしい。本拠はアメリカにあって、日本には1年の3分の1くらいしかいないという。毎年東南アジアのリゾート地で、パートナーと数か月過ごすとも言っていた。そういう生活ができるようになったのも、貧乏を乗り越えようとした努力の結果だと言うのだが。

 で、母子寮だが、父親がある日突然家を出て行った結果だそうだ。仕事をしたことのない母親は、母子寮に入るしか生きるすべがなかったのだろう。母親の苦労を見て育ったので、母親を楽にさせたい一心で、英語を必死に勉強したらしい。同じ思いの妹が看護師になったというのも同じ理由らしい。母親のように手に職を持っていないと、男に捨てられたときに苦労するから、一生働ける看護師を選んだというのだ。

 彼は大学卒業後、あてもなくアメリカへ留学。最初に行った大学は自分の思いと違ったので、中途退学をして、別の大学に移ったとか。授業を受けることはもちろんだが、アルバイトで学んだことも多かったとか。戦後の貧しい時代、父親がいないというだけで、就職も思うに任せなかっただろうし、母子寮という施設に暮らしているだけで、人の目が冷たかったことも想像できる。それをバネに、アメリカにわたって成功した彼の努力はたたえなければならないだろう。

 一方我が家は、父も母もいたが、今では死語になっている引揚者。舞鶴市に引き揚げ記念館というものがあって、40歳になろうとする娘と行ったのだが、現地に着くまで彼女は、引き揚げとは沈没した船を引き上げたのだと思っていたくらい。

 戦争が終わって、中国大陸から引き揚げてきた私たち家族は、戦争中に建てられた国策会社の労働者向けの4軒長屋の真ん中に暮らしていた。夜、電気を消すと、隙間から隣の家の明かりが見えるくらいの粗末な建物だった。第2室戸台風の時には家がつぶれると覚悟したくらい揺れた。窓のガラスが「しなる」という体験もした。それくらいぼろい家に住んでいた。

 お代わりをすることを遠慮する時もあった。うどん玉に醤油だけをかけて食べる昼食もあった。庭に生えていたパセリを摘んできて、細かく刻んだだけの具が入ったチャーハンもあった。それでもまだ食事があっただけ幸せで、給食のない中学校では、昼休みになると必ず鉄棒にぶら下がっている同級生もいた。私が「あいつ鉄棒がよっぽど好きなんや」とつぶやいたら、別の同級生が「弁当ないさかいや」と言った3階の教室の窓際の景色をとてもよく覚えている。

 あの頃はみんなが貧しかったんだ。こんな貧乏話の一つや二つ、誰だって語ることができる。ドキドキしながら盗りに行った近所の柿の実に、今の子どもは見向きもしない。

 今日本中で、子どもの貧困ということが話題になっている。この豊かな日本で貧困とはどういうことだとクレームが付きそうだが、世界での貧困の定義は相対的貧困で、周囲の収入の中間値に比べて半分以下を貧困というそうだ。みんなが貧乏だった時の貧困と意味が違うのだ。豊かな社会の中での貧困は違った意味でつらいこと。

 しかし、少しは日本中が貧困だった時のことも学ぶべきだと思う。携帯電話がなくても、はやりのブランドの服を着なくても、何にも困ることがないということを、若者も体験すべきだろう。教育費がかかるから子どもを産まないなどというのは、とんでもない傲慢に思える。物が十分でなくても、たくさん兄弟がいることこそ幸せだと思うべきだろう。個室や自分だけのテレビなんてくそくらえだ。チャンネル争いは私たちの成長のエネルギーだったのだ。

 論調がだんだん母子寮出身者に似てきている。若者はもっと年寄りに学ぶべきだと声高に語りだしている自分。これを老化と呼ぶのだろう。

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