随意随想

微笑の遙かな旅路

関西大学教授・日本笑い学会会長 森下 伸也

 5年前の早春のある日、私はギリシャの首都アテネにあるアテネ国立考古学博物館のなかにいた。彫刻を中心にまことに展示物盛りだくさんで、足を進めれば、たとえば「アガメムノンのマスク」のような、世界史や美術史で見覚えのある作品が続々と現れてくる。もうこれだけで十分に至福の空間。だが私のお目当てはまた別にあった。館内地図を見れば「アルカイック時代」という部屋がある。「アルカイック時代」とはギリシャ美術において前650年頃から前480年頃のこと、いわばギリシャ芸術始原の時代である。そう、私はこの部屋に展示してあるであろう彫刻が見学したくて来たのだ。ある、ある! 展示してあるあまたの神像また人間像、みな顔にすがすがしい微笑の表情を浮かべている。笑顔、笑顔、また笑顔。予想していた以上の笑顔の群像である。この笑顔には特別の名前がついている。ご明察のとおり、「アルカイック・スマイル」というのがそれだ。よく「古拙の微笑み」などとも訳される「アルカイック・スマイル」はこうして太古の昔、ギリシャで始まったわけだ。

 その後、前4世紀に、アレクサンドロス大王の東征の結果、ギリシャ文明はインダス川あたりまで広がった。これがヘレニズム文明である。そのころ古代インド北西部、インダス川上流部の地域、現在のパキスタンのペシャワルを中心とする地域を支配していたのがガンダーラ王国で、紀元1世紀頃から5世紀頃、クシャーナ朝ではとりわけ仏教信仰がピークに達した。その結果、ここで画期的な宗教の化学反応が起きた。仏像の誕生である。お釈迦さまは前5世紀頃の人であるが、信者たちは畏れ多いとして長らく仏像を作らなかった。ところがギリシャ文明ではどんどん神様の彫刻を作る。それが仏教徒たちに強烈な影響をあたえて、紀元1世紀頃からガンダーラで仏像を作ることが始まったのだ。ではその仏像たちはどんな顔の表情をしていたか。そう、流れからすると微笑んでいそうである。そのとおり! あのアルカイック・スマイルだ。みながみなというわけではもちろんないが、ガンダーラの仏たちはかくして多くが瞑想的に微笑んでいるのだ。

 ひとたび微笑する仏像が生まれると、それはただちにさらに東方への旅を始めた。つまり、シルクロードを伝って西域から中国へと微笑仏が伝播し始めたのだ。そして4世紀になるとシルクロード沿いに驚異的な仏教石窟が建造されはじめた。敦煌莫高窟がそれである。そしてそれから百年ほど遅れて、二つの同じく壮大な規模の仏教石窟の建造も始まった。雲岡石窟と龍門石窟である。これら中国の三大石窟には膨大な数の仏像が彫られ、仏絵が描かれているが、その多くがガンダーラに忠実に、優美に微笑んでいる。その光景たるや、さしずめ微笑仏の宇宙といったところである。

 超大国中国の影響は朝鮮半島にも及ぶことになった。朝鮮半島にも仏教は伝わり、当然、微笑仏も伝わった。日本に最初に公式に仏教をもたらしたのは6世紀の百済の聖明王ということになっているが、そのころ朝鮮で制作された仏像を見ると、やはり多くが軽やかに微笑んでいる。聖明王が日本にもたらしたのは仏像と経典であるが、当時の日本人はきらきらしている金銅仏の笑顔にいっぺんで心奪われたらしい。早速、日本でも仏像が作られはじめた。そうしてできた初期の仏像は飛鳥仏とよばれる。最も多くの飛鳥仏が見られるのは法隆寺であるが、本尊の釈迦三尊像、百済観音、救世観音など、法隆寺を代表する仏たちはそれぞれ個性豊かに、また魅力的に微笑んでいる。同時代、しかし日本の仏像を代表するのは、おそらく京都太秦広隆寺の菩薩半跏思惟像と、奈良斑鳩中宮寺のやはり菩薩半跏思惟像であろう。私はこれら見たさに何度も二つの寺に通ってきたが、その笑顔の魅力的なこと、世界仏像彫刻の頂点をなすこの二体の仏像の魅力はその超越的な微笑にある。私が思うに、この二体に至って微笑は新しい霊性の次元に到達したのだ。どこまでもやさしい救済の慈悲、また深く澄み切った悟達の浄福の、象徴としての神秘の微笑。はるかギリシャを出発したアルカイック・スマイルは、一千年もの時間をかけて何千キロも旅をし、とうとうここ日本でその最高表現に到達したのである。

 飛鳥時代にはこうして盛んに微笑仏が作られたが、残念ながらその後だんだん下火になった。ところがどっこい、江戸時代になって二人の卓越した仏師が現れて、この伝統を力強く復活させた。円空(1632―1695)と木喰(1718―1810)がそれである。前者は鑿あとも荒々しい野性的な作風が特徴で、なんと生涯に12万体の仏像を彫った。今残るのはそのうち約5500体で、多くが様々な表情の笑顔を見せている。一方、約700体ほどが残る木喰仏の多くはそれと対照的に丸く柔和な表情で微笑んでいる。

 日本はこうしてありがたいことに質量ともに世界最高の笑う聖像文化の国となっている。よく考えれば、ユダヤ教、イスラム教などはそもそも聖像そのものが教義上存在しないわけで、このありがたみをかみしめ、心洗われる微笑仏との出会いをもとめて、あちこちのお寺や美術館に出かけてみられてはいかがだろうか。

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