随意随想
コロナ禍のなかでの地域共生社会
関西学院大学 名誉教授 牧里 毎治
新型コロナウイルスの感染拡大でいつまで続くのか自粛生活を話題にするだけでウンザリされる方も多いだろうと思う。しかしながら、無視して見過ごすわけにもいかないので、コロナ禍で改めて気づいた思いを少し語ることをお許し願いたい。医療も充実していない約100年前の世界を襲ったスペイン風邪はどうだったのか気になるところだ。それはさておき、コロナ禍で考えさせられたことが多々あった。人は過酷な環境に置かれた時にこそ、人間としての本性、本質が露になるといわれているが、まさに当を得た格言である。感染予防のマスク着用も定着してきた感があるが、当初はマスクしていない人に暴言を吐き、暴力沙汰を起こしかねない人もいたようである。真面目にマスクで感染予防に心がけている人にとってみれば、予防ルールを守らない不埒な人間として許せない気持ちに掻き立てられるのかもしれない。感染が広まっている都市部からやってきた他府県ナンバーの車に傷をつけ、誹謗中傷する地元住民もいたらしい。こういう度を越した正義感にあふれる、ルールを守らない人を摘発して警告する人たちのことを「マスク警察」「マナーポリス」というらしい。人びとの態度や行動があまりにも個人主義的、自己中心的になりすぎて、私たちの暮らす地域社会がいつのまにか余裕のない不寛容な社会になってしまったからだろうか。
「地域共生社会」は、厚労省など政府が使い始めたスローガンだが、不寛容で排外的な社会になったという認識のもとに、認め合い助け合う地域社会を再生しようという意図が含まれているようだ。地域共生社会に「我が事、丸ごと」という修飾語もつけられたこともあったが、自分のことしか考えて行動しない非協力的な無縁社会に日本もなったということが現実なのだろうか。コロナ禍で起きている排除や差別は、殺伐とした、行き過ぎた利己主義、過剰な不安感や孤立感が駆り立てているような気がする。その意味では、もっとつながろう、連帯しよう,協同しようという呼びかけの言葉として「地域共生社会」は素晴らしい、素敵な語句だと思える。美しい言葉とは裏腹に現実の社会は、過酷で格差や排除にまみれたものであることをコロナ禍は私たちに見せつけたかったのかもしれない。
感染予防にはソーシャル・ディスタンス(社会的距離)を取ることが重要と政府も医療関係者も声高に提唱しているが、人びとが密集するのは都会で、過疎地や田舎といわれるところは言われなくても社会的距離が取れている。最近では都市部以外でも感染する地域がふえているが、都市部との交流が感染を加速させている原因とされている。確かに地方は、公共交通機関も脆弱だし、自家用車がなければ、移動困難者になってしまう。赤字路線という理由で地方の公共交通は軒並み廃線に追い込まれるし、とりわけ高齢者は移動難民にされかねない。かくいう私も高齢者としていつ自動車運転免許を返上するか思案している。今のところクルマでの移動はコロナ感染予防のツールにはなっているが、田舎とよばれる地方での生活では、クルマが必需品でいつから運転をやめるか決断するのは悩ましい。
地域共生社会の話題に戻すが、クルマ社会こそ人びとを利己主義で自己中心主義に追い立てる象徴ではないかとさえ思えてくる。マスコミでニュースになる「あおり運転」は最たるもので、運転妨害のみならず暴言威嚇など目を覆いたくなるような行為をしてしまうのだろうか。あおり運転した当事者からは交通ルールを守らなかったから、方向指示器もださないで路線変更、割り込みをしたので注意、警告をしたかっただけという主観的弁解を聞かされることもある。コロナ禍での「マナーポリス」を連想させるが、交通ルールを守らない運転者も年々増えているようにも思える。信号無視や割り込み運転など交通ルールを守らなければ事故につながることもあり、正義感の強い人は警察に代わって取り締まりたいのかもしれない。クルマの運転は人の性格を変えてしまうと言われているけれど、確かにクルマという文明の利器を操作しないときには大人しい礼儀正しい人物が、ひとたび運転すると豹変してしまう。クルマという最新高度技術の粋を集めたテクノロジーの持ち主としては、その万能感やステータスに酔いしれてしまうのだろうか。しかし、だれもが運転操作にたけているわけでもないし、運転は上手ではないけれど生活上の必需品として利用せざるをえない人もいるし、身体に障害があるためクルマが必要な人もいるのがクルマ社会だとすると、多様な存在を認める「地域共生社会」の実現はクルマの運転マナー改善から始まるのではないだろうか。人それぞれの個性や経歴の違いを認め、理解しようとする態度がなければ、私たちが「共生する」ことは不可能だ。たかがクルマの運転マナー、されどクルマの運転マナーなのだと思い知らされる。